対馬・志多留とは

対馬の「いとなみ」を「つなぐ」。 対馬の
いとなみ
をつなぐ

活動フィールド

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Activity Field

日本のルーツを今に伝える国境の島・対馬

朝鮮半島と九州との間に飛び石的に存在する国境の島、対馬。
古来より、大陸と日本との懸け橋として、外交、貿易、文化交流の重要な役目を担ってきました。漢字、仏教、稲作…。現在の日本を形作る様々な文化や技術がこの島を経由して、大陸から日本にもたらされてきたのです。

対馬について

こうした大陸とのつながりは、歴史や文化だけではありません。
対馬の地層は、大陸から分裂して形成された日本列島誕生のドラマを、ダイナミックに物語っています。
大陸系、日本系、対馬固有種が入り乱れる対馬の独特な生物相からは、かつての日本が大陸と陸続きだった歴史や、島国日本が形成されてからの進化のプロセスを紐解くことが出来ます。

まさに、日本の「ルーツ」を探るカギが、対馬にはいたるところに存在しているのです。

稲作伝来の地・志多留

対馬の北西部にある集落、志多留(したる)地区。私たちが、活動拠点としている地域です。
ここは、対馬の考古学の発展の引き金ともなった志多留貝塚が発見された地域でもあり、縄文時代から人が暮らしていたことが分かっています。三千年以上の集落の歴史があるのです!
この志多留貝塚からは、稲穂の採集に使われたとされる石包丁が出土し、すでに弥生時代の初期には、稲作が行われていたことの証拠になっています。稲作の歴史は、二千年にもわたります。

志多留について

深い谷が、一年中途切れることなく水を運んできます。「志多留」という地名の由来も、「(水が)したたる」から来ていると言われています。広い山から水を集めてくる深い谷。この地形が運んでくる豊富な水が、まだ灌漑技術が整っていない時代には、田んぼを作るのになくてはならない環境だったのでしょう。
そんな志多留地区周辺には、大陸からの稲作伝来の歴史を思わせる、こんな伝説が残っています。
《あるとき、稲穂をくちばしにくわえた一羽の鶴が川に降り立ち、その稲穂を落としていきました。民は、鶴が運んできたその稲穂を拾って、ここに水田を作りましたとさ》
志多留の隣の集落は「伊奈(いな)」。稲作の「いな」がその由来だということです。「鶴鳴橋」「穂流川」「垂穂橋」…etc.
その伝説を伝える地名も随所にみられます。

生態系の構成要素がすべて詰まった小宇宙

私は、2012年の冬、この志多留地区に一目惚れして移住してきました。
田んぼだけではなく、山、川、畑、集落、浜、海…里山を構成するすべての要素が、志多留地区内には揃っています。そして、それらが有機的につながり、人々の暮らしや里山の生きものを支えています。私には、これらが宝の山であり、真っ白なキャンパスに見えました。その土地にある資源を活用し、物質循環を可能にする地域づくりを行う上で、必要な要素はすべて用意されているように思えたのです。
この地で三千年という時間をかけて育まれ、守られてきた自然と人々の共生の智恵を、自分自身もここで暮らしながら学び、伝えていきたいと思っています。

志多留地区の航空写真(1993年)

▲志多留地区の航空写真(1993年)山、川、畑、集落、浜、海…
すべてつながっている

集落内に点在する空き家

▲集落内に点在する空き家
床が抜け落ち、屋根がはがれ、動物たちの住処になっています

失われゆく三千年の歴史

志多留地区の人口は、現在59名(令和2年7月現在)。
高齢化率は5割を超える限界集落です。かつて500人弱の人が住んでいたというこの集落も、今では空き家が目立ちます。
人口の減少は集落機能の低下を招きます。集落からは子供の声が消え、お祭りなどの伝統行事も1つ、また一つと消えていきました。

三千年の集落の歴史。二千年の稲作の歴史

稲作伝来の地とも伝えられ、古くから人々が営みを続けていた集落ですが、若者の流出が後を絶たず、長い間人々や里山の生物を育んできた水田や畑も、今やほとんどが放棄されています

昔から水田や木庭作(焼き畑)が盛んだった志多留は、対馬を代表する里山のいきもの、ツシマヤマネコの生息密度も高い地域です。九州大学や琉球大学のヤマネコ研究グループの調査地としても長年利用されており、生態研究に貢献しています。しかしこのまま水田が消失し、土地が乾燥化していったら、今のような高い密度を保つことは難しいと考えられています。

三千年の集落の歴史。二千年の稲作の歴史。その中ではぐくまれてきた自然との共生の智恵、結果としてそこにすまう生きものたちの息吹。その歴史と智恵が、過疎高齢化の波によって、今、途絶えようとしているのです。

耕作放棄地が広がる志多留の谷

▲耕作放棄地が広がる志多留の谷
一年中水が切れることなく、稲作伝来の地を誇る志多留の谷も、見る影もありません

「学び」の力で集落再生を!限界集落の挑戦

「学び」の力で集落再生を!限界集落の挑戦

65歳以上の高齢者が半分を超えた地域は「限界集落」と定義され、共同体としての機能が急速に衰えてしまい、集落の維持が難しくなるといわれています。志多留は、定義からすれば、まさに限界集落です。しかし、住んでいる限りでは、まったく悲壮感がありません。
確かにお年寄りばかりですが、みんな元気で、野菜づくりなどに精を出しています。作った野菜は、「おすそ分け」という形でいろんな人々をつなぎます。地域の絆も強く、冠婚葬祭も地域で助け合いながら行っています。
なんて豊かな暮らしだろう。移住者である私には、そんな風に感じられる志多留の暮らし。そこには、これからのライフスタイルのヒントが詰まっているように思いました。

大好きな志多留の人たちの故郷を、消滅させたくない。この地域で私たちのような若い世代(志多留では、60代は若手、と言われますので、そういう意味では、私はかなり若手です 笑)が暮らしていけることを実証したい。この地域の豊かさを証明して、この地域で仕事を作りたい。いつしかそんな風に、思うようになりました。

子どもも、子どもを産む世代の夫婦もいない志多留では、この先自然と人が増えることはありえません。集落を存続させ、歴史を繋ぐためには、外から人を呼び込むしかない。ではこの地区で人を集める魅力は何なのだろう。それは「学び」だと思いました。
この場所に来て、私が一番に感じたことは、途切れない水がある、山がある、海がある、田畑が作れる…。人間が生きていくために必要な資源は、すべて揃っているということでした。だからこそ、縄文という時代から、人が住んでいたのでしょう。自然から恵みを取り出す知恵や技術、その営みの中で育まれてきた里山の生きものたち。これらを学ぶフィールドとして最適だ。「学び」を一つのキーワードとして人を呼び込もうと思い立ちました。

そんなこんなで、私たちは今、「学びによる交流」の事業化を進めています。

志多留の人口構成の変化

▲志多留の人口構成の変化

志多留はその昔、「学者村」とも呼ばれていました。就学率がとても高く、子どもに熱心に勉強させる地域でした。今志多留に住んでいるお年寄りたちの中にも、校長先生をされていた方がたくさんおられます。稲作が盛んだった志多留は、豊かに暮らせた場所だったのでしょう。豊かだったからこそ、勉強をさせてあげられた。その結果、子どもたちは志多留を、島を離れ、故郷はどんどん過疎化が進んだ…。なんだかとても皮肉ですね。豊かな土地に人が残れない、という矛盾を感じます。
「志多留」という名前の通り、志を持つ人が、たくさん(地方に)留まることができる社会になればいいな、思っています。 

(代表理事 川口幹子)